プロフィール

八尾・大阪市内にて、「きものと舞う」を主宰。
初心者向けのきもの着付けと、京阪で生まれた伝統芸能、日本舞踊・上方舞(山村流)を、多くの方に楽しんでもらえるよう日々活動中。

祖父・祖母の影響を受け、6歳で初めて日本舞踊のお稽古を経験するも離れ、通った着付け教室で上方舞の師匠と出会ったことをきっかけに再開する。2010年 名取、2013年 師範。

上方舞 山村流と出逢うまで

祖父母が日本舞踊をお稽古していたので、家族には日本舞踊の存在は既に馴染みがありました。特に母と祖母は女の子にはお行儀見習いとして絶対に習わせたい!という熱烈な希望があったようです。そこで、6歳6月6日より日本舞踊のお稽古が始まりました。(伝統芸能の世界では6歳6月6日より稽古をはじめると上達すると言われているようです。)

自分で浴衣を脱ぎ着し、踊りのお稽古だけでなく、ご挨拶や所作も一緒に学びました。当時の先生がめちゃくちゃ厳しい先生で…、先生の前で正座したまま泣いていたことを思い出します(笑)。ある時、先生がお稽古を辞められることになり(先生の個人的ご事情により)、私もそのまま日本舞踊から離れました。厳しかったせいか”もう稽古せんでええんや〜”ってほっとしたのは一瞬で、後から寂しくなったのを覚えています。

その後は、学校のクラブ活動に燃えました。入部したバレーボール部がたまたま強豪校で猛烈な体育会系、、、ここでも厳しい日々となりましたが嫌ではなかったので、私って体育会系気質なんや!と認識した次第です!

大学では体育会アメリカンフットボール部のマネージャーになりました。体育会気質のせいか体育会ノリが好きだったのと、高校の時に初めて間近で見た迫力ある試合に感動してアメフトファンだったからです。シーズン中のリーグ戦がテレビ放映されることがあるような関西ではトップクラスのリーグに所属していたので厳しい部活動でしたが、アスリートを支えるためのたくさんのことを勉強した4年間でした。

大学卒業後は、デザイン事務所へ就職。新聞・雑誌・ポスターなど平面広告制作のグラフィックデザインナーとして働きました。めちゃくちゃ働きました、本当に…。辛いこともいっぱいありましたが自分がつくったものが世にでて残ることの幸せは他には変えがたい宝物になりました。撮影などでファンのタレントさんに会えることが楽しみだったり、カメラマンさん、スタイリストさん、ヘアメイクさんなど個性的なスタッフの方々と知り合えるのも面白かったです。

ある日、会社で倒れました。病院へ運ばれ始めて自分の身体に起きていることに気づかされました。子宮内膜症で片方の卵巣が爆発寸前、子宮筋腫もありました。手術をすることになりました。1ヶ月ほど仕事を休み復帰をして通常の仕事生活に戻りました。ある時、定期検診へいくとまた再発していたのです。それがきっかけとなりいったん仕事を辞めて、人生の休憩へ入ることにしました。

仕事尽くめの時に趣味でボディーボードをしに海へ行くのが楽しみでした。特に四国の高知県中村市(今の四万十市)という場所が大好きだったので、人生の休憩場所にさせてもらおうと移住しました。毎日毎日、海に入り自然と共存することは心身を癒してくれました。

人生の休憩を経て、再び社会復帰です。仕事のキャリアは広告の仕事しかなかったし好きでしたので、広告代理店で働くことにしました。社会復帰してまず考えたのが、仕事もプライベートもバランスよく過ごす事でした。でなければまた倒れるようなことになる…。ボディボードをしに海へ行くことは頻繁にできないし体力的にもしんどくなる、もう少し身近にできるような新しい趣味を探してみよう!と思いました。

そこで、ふと頭をよぎったのが「きもの」でした。日本舞踊をやっていたし、祖母・母・自分のきものも家にはあるし、歳を重ねても変わることがないであろうものだし、ずっと楽しんでいける!。自己流でしか着ることができないので、一度きちんと着付け教室へ通って習うということから始めることにしました。そこで出会ったのが「キモノ・スイーツ」という着付け教室で、気軽に通いやすそうな雰囲気が魅力的でした。3ヶ月で自分できものが着られるようになるという初心者コースへ通うことにしました。

この着付け教室で、今の仕事につくきっかけとなる先生に出逢うことになりました。先生は日本舞踊をされていてお稽古も開いていたんです。それまで離れていた日本舞踊がぐっと身近になり、目の前にやってきた瞬間でした。先生の舞台をすぐに拝見できたこともタイミングが良かったです。先生の舞台を観た瞬間、迷うことなく「習いたい!もう一度やりたい!」と思いました。自分が昔習っていた踊りとは違うけど、「上方舞」ってなんて素敵なんやろ〜と興奮しました!

こうして私は、上方舞 山村流に出逢い、お稽古へ通わせてもらうことになりました。

 

山村流 名取・師範へ

広告代理店で働きながら、仕事帰りや休日などに上方舞のお稽古へ通う日々が数年続きました。仕事が忙しくて全然自宅で稽古できてない、振りの覚えが怪しいなどの理由から、お稽古へ行く足が重くなることもありましたが、いざ稽古へ行くと「やっぱり来て良かったな〜」とよく思いました。

好きな事を仕事にできていたのでストレスを感じることはないと自分で思っていたのですが、長時間のデスクワークや、対人関係、過度の作業量などが、日々少しずつ心身にストレスを溜め込んでいました。そんなストレスは上方舞のお稽古がリフレッシュしてくれました。伝統芸能という普段の生活とは全く違う世界観の中で身体を動かし舞うことで、心身ともにすっきりできました。上方舞のお稽古は、多忙な仕事とうまく距離をつくりながらプライベートも充実させてくれる、自分にとってなくてはならない存在となっていました。

国立文楽劇場での舞台出演なども数回経験するようになっていたある時、先生から「お名前をとるのはどうですか?名取試験を受けられてみませんか?どうぞお考えください。」とお声掛けいただきました!「えぇぇ〜〜〜!?」という驚きしかなく、まさか自分が名取になんて!という言葉しかでてこず、どうしたものかと母に相談しました。すると母はすぐに「そういうものは、言われた時がタイミングなのよ」とアドバイスをくれたのです。いつもふわふわしている母でしたが、的確な返答にこのときはちょっと見直しました(笑)。

そんなアドバイスをくれた母が末期ガンと分かり余命数ヶ月となりました。そんな時に名取試験なんてと、父と弟に相談しました。「じゃ、お母さんの生きる目標にしてあげればいいんじゃないのか!」と言ってくれ、名取試験に合格して報告することを、母の楽しみにしてもらうことになりました。

そこからは、仕事と母の介護でいっぱいいっぱいの極限状態のなか、名取試験に向けての稽古を夜中にする日々が数ヶ月続きました。精神的にも肉体的にもとてもつらい日々でしたが、稽古をする私を応援してくれる母の笑顔、名取試験に合格するという約束など、お稽古が自分自身の支えになりました。何よりすべてを忘れ、現実から距離をおけることになっていました。

無事に名取試験に合格し、母へ報告できることができました。名取式を終え、その2ヶ月後に母は逝きました。そんなこともあり、この名取は形見のように思うことがあります。

名取になり3年後に師範試験を受けることとなりました。師範になれば教えることができます。私が人様に教えるなんて…と思いましたが、これもお声掛けのときがタイミングという母の言葉を思い出し、試験を受けるべく、めちゃくちゃ稽古しました。名取試験のときも自分では結構やったつもりでしたが、試験の内容のレベルがぐ〜んと上がるので、今までとは比べ物になりません。先生も本当に熱心にご指導くださいました。そのお蔭で、無事に合格し、「師範」のお許しをいただきました。

とはいえ、まだまだ未熟者。。。これからも稽古に励み経験を重ね、日々精進してまいります。

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